頭上に揺蕩う俺の罪が
俺を貫き殺すまで
退くことは出来ない
034:剣
多趣味な男だった。機転こそ利いたが戦闘力としては驚くほど脆弱だった。後から加わるもののほうがよほど強くて、普段は使わない気を使う周防尊や草薙出雲に男は笑った。大丈夫、なんとかなるよ。限りなく無根拠だと思うのにそう言われるとそうなる気がした。
大丈夫。
十束多々良は死ぬまでそう言っていた。そして、死んだ。
目覚ましが嫌いだ。草薙が尊の寝穢さを直すべく購入した目覚まし時計は全て壁にたたきつけた。しまいには人を寄越す。八田美咲などの年少のものが来るたびに尊は気を使って起きだした。今日はその迎えが来る前に起きだした。脱ぎ散らかした衣服をかき集めて何とか見られるなりになる。額へ房になってかかる髪をかきあげる。鬱陶しくてかき上げているうちに髪に癖がついて何をせずとも額が出た。猫のように歯を剥くあくびをしながら階下のバーへ行く。
バーは草薙が切り盛りした。前髪のおりていた学生時代から入り浸り、ついには自分の城にしてしまった。おこぼれに預かるかたちで尊も出入りし、ねぐらになってしまった。境界の扉を開けるとからんからんと鐘が鳴る。落し気味の照明が常であるから人の出入りするところには音がなる仕掛けを多く施す。雨が降っていても扉の鐘はよく響く。なにやら作業していた草薙が顔を上げたが表情が曇った。無視して定位置へ腰を下ろす。腹が減った。雛鳥のように口を開くとため息をつかれた。お前は食うか寝るか垂れるかしかないんか。ねェな。開き直るなや。ぶつぶつと文句を言いながらも草薙がカウンターの下から透明フィルムで埃よけをしてある皿を取り出す。余りもんやで。尊は食事に文句はつけない性質だ。
尊が食事をしている間、草薙は珍しくも何も言わなかった。気がつけば集まっている面子もいない。経済的な拘束のない団体であればこういう日もあるだろうと軽く構えた。空の皿を放り出して煙草を探す。こういう時に限って見つからない。二階においてきたか。草薙が自分で咥えて火をつけたものを寄越した。臆面もなく咥えて喫むと草薙がまだ尊の方を見ていた。
「なンだ」
「尊、お前、自分の頭の上、見たことあるか」
単純に頭上を指すだけではなく。特別的な能力を得た代償のように、尊がその能力をふるうたびにその上空へ巨大な剣が出現した。立場を同じくすれば同様の現象が起きるという話であった。尊が属するのは赤色だが他の色のものでも同じようなことが起きる。
煙草をゆっくりと喫みながらしばらく考える。もともと被る事柄だとかリスクだとかそういったものを気にしない性質なのだ。盤上遊戯においても守るべき駒を守る気がない。前提条件を踏まえない。
「…ねェな」
「けっこうひどいもんやで」
草薙は茶化すように言って食事の終わった皿を下げた。青の王様のほうがよっぽど新しゅう見えるわ。尊の内部がざわりと動いた。他人の評判に文句をつけないが気にするでもない。草薙の会話は明らかに不要で、癪に障るようなざわめきを秘めながらだからなんだと思った。聞いた話では剣の新旧に関係なく一線を踏み越えれば容赦なく落ちてくるのだという。新しいから落ちないわけでもないものの傷みを気にする気はなかった。
「なにが言いてェンだ」
「十束が死んでからひどいな」
身を乗り出すようにして殴りつけた。二度目はねェぞ。こめかみに筋を浮かせる尊にも草薙は怯まない。長い付き合いで互いの在りようはちょっとした事で知れる。怒りの奥で渦巻く恐れにさえ草薙は、尊本人よりも解っている。
草薙は殴られた頬に触りもしない。あかんな。ぷっと吐き出す赤い唾の中で白く照る硬質な欠片がシンクを転がった。歯が欠けたわ。気まずい沈黙が流れた。気が立っているので謝罪する気は起きなかったし、草薙も求めなかった。過剰な手応えに沸騰は瞬時に冷えた。声をかけられたら謝罪できると思うが尊の方から切り出すのが嫌だった。機微に敏い草薙が何も言わないことがかえって深刻さを表している。十束多々良は草薙と尊だけではなく、このバーを根城にしている吠舞羅という団体共通の知己だ。中でも草薙と尊との付き合いは古く、団体の前身であった頃からの知り合いだ。尊が最初に能力でしばった部下が草薙と十束だった。
草薙の手元を見てから席を立つ。外へ出ても草薙からの働きかけはなかった。上着を羽織るとふんわりしたファーが耳朶や頬をくすぐる。出ていきしなに草薙の声が玲瓏と響いた。
「お前は誰の声を聞くん?」
乱暴に閉めた扉が返事だ。
うろうろとあてもなく歩きまわる。揉め事は暴力的に解決する。解消できない苛立ちは吹き出す鮮血を見ても変わらない。髪を掴んで顔面をコンクリートの壁へ思い切りこすりつける。顔面は神経や血管が多いからちょっとした傷でさえかなり痛む。わかっていてやっている。散り散りに逃げていく背中へ唾を吐きかけた。ずいぶん派手にやってるな。建物で狭まった出入口へ陣取られた。乏しく陰る光源でもその色は青だと判る。膝辺りまで先端を伸ばす洋刀は戦闘状態へするのに手続きがいるのだ。尊が統べる赤色とは正反対だ。赤色において暴力は常に剥きだしでしかない。おさめるべき鞘などない。
「…宗像」
「周防、通報があったぞ。能力を使っていないことは褒めてやる」
宗像と尊の双方が能力の行使には制限を有した。発露させた瞬間に空間は歪んで隠しようのない巨大な剣が情報を露わにする。剣は定点に出現するわけではなく、その場その場の上空へ現れた。
「通報か。ずいぶんここもお品がいいじゃねェか」
悪態をついても宗像の怜悧な表情は変わらない。
「ずいぶん、傷んでいるな、周防」
草薙と同じ含みを言われて猛烈な吐き気が襲う。あてがう手すら間に合わず尊はその場で嘔吐した。膝はつかない。ガクガクと震えていたが保ちたい自負がある。腹の中のもの全てをぶちまけてなお嘔吐く。喉は灼けて口の中は酸っぱく水っぽい。咳き込むたびに灼熱がこみ上げて沁みた。
そのまま倒れ込みそうになるのを抑えたのは宗像だった。いつの間にかそばに居た。大丈夫か、周防。尊は口の中へ残っていた吐瀉物を吐き出した。透明でねばつく唾液が口元をでろりと汚す。四肢に力が入らない。宗像が無造作に掴む腕がかろうじての均衡を保っていた。
「大丈夫か?」
ちくしょう。
「…うるせ………その、言葉、ムカつくンだよ…」
すがりつくように抱きついて、覚えているのはそこまでだった。
頬をすり寄せた感触の違いで目が覚めた。糊の効いた敷布はパリっと固い。尊の寝床は草薙が手入れをしてくれるが、店の切り盛りもあるから最低限だ。感じているのは明らかに来客用のそれだ。身じろいでから異様な軽装に気づいた。ひと冬乗り切るのを繰り返したファーやジャケットではない。中に着ていたシャツとも違うものを着ている。下着は着ているがそれだけだ。かなりゆったりしたシャツを着せられている。寝台のそばには洗面器やら水差しやらがおいてある。
「起きたか」
声で宗像だと判ってもその出で立ちにあっけにとられた。和装だ。衿の合わせと帯の締め。履き物と合わせてみると旅館のような感覚にさせた。
しかも濡れ髪を拭っている。ますます状況が判らない。本当はオレの浴衣を貸そうかと思ったんだがお前は吐いてたからな。帯を締めたら苦しいかと思って。シャツは一番大きなものを選んだから締め付けはないだろう。立て板に水とばかりに説明されるのを胡乱に聞き流す。お前の服は汚れたから少し洗ったぞ。染み抜きの処置くらいはしてあるが早めのほうがいいかな。体の中をめぐるものは落ちにくいぞ。尊は草薙の小言を流すときのように相槌も打たずに寝台に体を投げ出す。尊がそういう態度をとるたびに草薙の小言が増える。それを十束が笑ってみていた。十束多々良。不意に潤んだ眦から雫が伝う。避けに避けていた記憶が気をくじいた。王だと祭り上げられて、それでも古馴染みを守ることも出来なかったのだ。
「周防、泣くときはせめて辛そうな顔をしてくれ」
寝台へ腰を下ろした宗像の指先が尊の頬や口元を移ろってから落涙を拭う。オレだって泣くときくらいは顔を歪める。…てめェがかよ。声をつまらせる可愛げをだな。洟が垂れる。敷布で拭わないでくれ。
まったく、と言いながら宗像がちり紙を寄越した。ほら、洟をかめ。ぎゅむ、と鼻筋を摘まれた。払いのけるのを宗像が笑う。それくらい元気なら大丈夫だな。気分が悪くなる。耳をふさぎたくて枕や毛布を引っ張った。丸まろうとするのを宗像も止めない。あんまり腹を押すんじゃないぞ。吐いてるんだから。気分が悪いなら洗面器いるか? ムカつくンだよ。なにがだ。
「……だいじょうぶ」
文脈からは何も悟れない。そのはずなのだが宗像は素直にそうかと詫びる。判ってンのかよ。食って掛かるのをいなされた。お前とは方向の違う情報網があるんだよ。
「…お前の剣を見た」
宗像は治安を守る公僕だ。無頼の集団である尊たちへの監視もある程度は共有情報だ。
「だいぶ、傷んでいたな」
「…ぐちゃぐちゃうるせェな。どいつもこいつも」
傷んだからなンだっつうんだ。砕け散らせりゃあいいのか。癇癪が破裂した自覚がある。理不尽の自覚があるから余計に歯止めが効かない。
「………うるせェンだよ」
癇癪が破裂したのは久しぶりだ。積み重なる前に吐き出すように流されていた。十束はその塩梅のうまい男だった。オレの着替えについてはノーコメントなのか。……どうせ俺が吐いたンだろうが。まぁ、正解だ。クリーニング代は草薙に回しやがれ。ふてくされて毛布をかぶる。
泣き出したい衝動と冷えきっていく理性の間に落ち込む。焦燥と持て余しに倦んで喧嘩を繰り返した頃のように満たされない。埋めるすべはないのに虚ばかりが口を開ける。ぽん、と頭を撫でられた。草薙でもしないようなことを宗像はあっさりする。髪を梳くように撫でるのは子供をあやすのとまったく同類だ。
「…なにしてンだ」
「猫をあやそうと思っている」
お前の剣は見かけるたびに傷む。ひびや割れ目は深いし。剥離した破片があるんじゃないかと思って探したぞ。未練がましいな。そう言うな。割り切れる事のほうが少ないぞ。銀縁の眼鏡の奥で眇められる双眸は水面のように尊を映す。赤のクランズマンに人死にが出たと報告を受けた。お前の大事な男か? …ダチだよ。かなり旧い。そうか。尊は黙して宗像が撫でるままにさせた。その姿は猫が何とか黙っているのに奇妙に似た。線を踏み越えれば爪を立てて噛み付くのに前触れは一切ない。
「もっと周りを頼れ」
「いいンだよ。どうせ」
消えちまうんだから。
十束殺したやつをぶっ殺したらあとはもういらねぇよ。
「ずいぶん、刹那的に生きるものだ。吠舞羅はみんなそうなのか?」
「知ったことかよ」
尊は宗像の手を払って背中を向けると枕や毛布に埋まった。宗像の体温が退かないのを背中で感じる。肩や肩甲骨が引き締まるように蠢いた。
「周防、オレはもう少しお前といたいんだがな」
こぼれて消える言葉に返事はしなかった。
好きであるのが怖かった
《了》